![]() |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4月も10日が過ぎ長く咲き誇った桜も散り始めましたがみなさまいかがお過ごしでしょうか?
建築家コラム、第10回のゲストはSunayama studio代表の「砂山 太一」(すなやまたいち)様です。 砂山さんは建築家の他に美術研究家の肩書を持つ建築家の世界では異色の存在です。 今回は建築家の観点のみならず、美術研究家としても床にどのような意味や意義を発見されるのか楽しみです。 それでは、砂山さんのコラムをお楽しみください。 ![]() Sunayama studio 代表 京都市立芸術大学 美術学部 総合芸術学科 芸術学研究室 専任講師 1980年生まれ 2004, 多摩美術大学彫刻学科卒業 2008, Ecole Speciale d’Architecture Parisマスター課程修了。 2008-2011,Jakob + Macfarlane勤務 2012-2013,東京大学工学部非常勤講師 2014-2018, 京都市立芸術大学 美術学部 総合芸術学科 特任講師 2015-2017, 武蔵野美術大学建築学科非常勤講師 2016, 東京藝術大学大学院建築専攻博士後期過程修了 2018, 合同会社sunayama studio設立 2018- , 研究プラットフォームindex architecture / 建築知 プロジェクトマネージャ 2019- , 京都市立芸術大学 美術学部 総合芸術学科 専任講師 建築における床の意味と意匠
あまり記憶が定かではない。たしか森美術館の開館記念展「ハピネス」で見かけたことだとおもう。作品名や作者名は覚えていないが、近現代美術の数多くの著名な作品が並ぶ中、湖を湖岸から定点で撮影した映像が壁にプロジェクションされていた。ゆったりと湖面を移動する小舟や、緩やかに移ろう霧の濃淡が、叙情的とはいえ対象と少し距離を置くようなドライさを讃えていた。映像としてもとても印象深かったが、それ以上にこの作品を強く筆者の記憶に留めた原因は、映像が投影されている足元の床面にあった。 映像作品はL字に作られた白い造作壁に投影されていて、そのL字自体は、展示室の中央あたりに設置され間仕切りの機能を兼ねている。目線より少し低めを中心にしてプロジェクションされた映像から視線の流れそのまま、ふとL字の角の入隅の床面に目をやると、そこには綿埃がくるくると揺れていた。床面の綿埃は、美術館を流れるかすかな空気の対流に揺れ、映像内の湖面を走る霧や小舟と呼応しているかのようにも見える。それは、鑑賞の次元においては明らかに映像の強度を増幅させ、展示環境を映像作品の一部であると認識させているように思われた。 芸術作品における付随的、二次的なものをパレルゴンという。作品自体を指すギリシャ語エルゴンに接頭詞パラ(傍らに)をつけたこの語は、本来絵画の背景などを指す言葉として使われていた。近代以後、カントが論著「純粋理性批判」において絵画の額縁、彫像の衣服、建築物の柱廊などに拡張して用いたことをきっかけに、哲学者デリダがこの指摘をさらに深化させ、今日の美術批評における一つの修辞となっている。 映像作品とは一見関係のない綿埃の動きをきっかけとして、本来作品を設置するための建築環境が、作品の一部となる可能性があることを、建築はどう考えることができようか。この議論は、ブランクーシのアトリエやアンソニー・カロの彫刻、ミニマリズムに代表されるような、現代美術における台座の作品化ないしは消失とも関連するだろう。残念ながらこのコラムには、建築要素が美術作品にとってのパレルゴンとなることを勘案する余白は残されていないが、美術研究者と建築家の2つの肩書きをもつ筆者にとっては、いつか挑戦してみたい議論である。特に、床は立体作品が直接接していることも多く、その美学的検証は建築と美術、両輪で論じられるべきだと考える。 ところで最近、AGCが主催する「鏡と天秤」という展示に参加した。筆者は、AGCが開発するミラー型ディスプレイ「Augmented Mirror」を用いた空間設計をおこなっている。部分的にミラー型ディスプレイを配置したグリッド状のL字鏡面壁を2つ用い、実物のオブジェを配置しながら、映像と鏡像と現実が入り乱れるような空間設計を試みている。そして、ここでの設計意図のひとつに、少なからず上記のような床と美術作品の関係に対する意識があった。オブジェを床置きにして床への注意を集め、床と接する部分は鏡面壁のフレームをつけていない。フローリングの割付と平行にして設置された鏡面壁はフローリングも連続的に見え、角度を降っている部分は、フローリングの反射が鋭角に折れる。鏡の中と現実の連続と断絶を2つの壁の角度の違いによって生むことを意図している。
果たして、このような操作がどのように建築と美術の思考を越境しうるのか、さらなる検証の余地を必要とするが、すくなくとも、両者をともにする一つの思索の現れであると思いたい。 砂山さん、寄稿ありがとうございました。
普段私には考えも及ばないところに着目され、さすが美術研究家の感性だと感じ入りました。 今後ますますのご活躍をお祈りしております。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|